匈奴の「龍城」発見のニュース

研究
遺跡のドローン画像(イデルハンガイ氏FaceBookページより)

1.Facebookの投稿から拡散

「匈奴の龍城が発見された」というニュースが世界中を駆け巡ったのは、2020年7月18日のことであった。事の発端は、7月17日にウランバートル大学准教授のイデルハンガイ(Iderkhangai Tumur-Ochir)氏が自身のFacebookページ上に5枚の写真とともに発掘調査の成果をアップしたことである。この投稿に対して200件を超えるコメントや400件を超えるシェアがあり、一気に情報が拡散していった。モンゴル国内の反響も大きく、モンゴルの主要な新聞やニュース番組に取り上げられた。

イデルハンガイ氏(モンゴルのニュースサイト:http://itoim.mn/article/jlsmB/23080 より)

一方で「天子單于・・」の漢字が瓦当に見られたことから、中国がこの投稿にいち早く反応し、中国の様々なメディアに取り上げられ、新華社通信から英文の記事(「Archeologists discover capital of Xiongnu Empire in central Mongolia」2020年7月18日、XinhuaNet)が掲載されたことから、この記事が一気に世界中に広がっていった。

日本でも「モンゴル中部で匈奴帝国の首都遺跡見つかる」(2020年7月22日、AFPBB NEWS, https://www.afpbb.com/articles/-/3294822)や「失われた古代国家「匈奴」の都市、ドラゴンシティをついに発見か?(モンゴル)」(2020年8月6日、http://karapaia.com/archives/52293365.html)などの記事をWeb上で見ることができる。

 

2.発掘調査の情報

発掘調査に関する正式な報告はまだ行われていないため、ここに記載する内容はニュース記事の内容やモンゴルの研究者に個人的に聞き取りした内容であることをまずお断りしておきたい。

遺跡はアルハンガイ県ウルジート郡ボドント・バグのドゥルブルジンという場所に立地している。ウランバートル大学のイデルハンガイ氏は2010年ごろから匈奴の中心地の研究を開始し、匈奴時代の墓が数多く見つかっているこの地域に着目した。そして衛星画像から土城の存在を確認し、2017年に現地踏査を行なった結果、匈奴の土城であることが判明したものの、資金面から調査を行なうことができなかった。2019年に文字のある瓦を表採したらしく、研究者間では「漢字の書かれた瓦が見つかった」という噂が広まっていた。今年(2020年)に入り、ウランバートル大学から少ないながらも調査費用が下りて、7月9日から手弁当に近い状況で発掘調査を開始し、7月17日にその成果の一部をフェイスブック上に公開したとのことである。

公開された瓦には瓦当部分に文字が三段に描かれており、「天子單于 / 與天毋極 / 千萬歲」と読むことができる。ニュース動画をみると、それ以外に文字が刻まれた平瓦が出土しているようである。

出土した瓦当の写真1(イデルハンガイ氏FaceBookページより)

出土した瓦当の写真2(イデルハンガイ氏FaceBookページより)「天子單于」と読める。

土塁の囲まれた方形の土城で、基壇がいくつか確認され、大きな池がある。調査者は当時の人工的な池と考えており、それにつながる石と粘土で作られた水道管(あるいは水路)の跡を確認している。「單于」瓦の出土とこの池の存在から、単于の夏の宮殿であった可能性が指摘されている。他の地点の調査では、土器片が多く出土しており生活空間が存在していたことが推測される。

 

3.モンゴル科学アカデミー考古学研究所のG. エレグゼン所長のコメント

エレグゼン氏(エレグゼン氏FaceBookページより)

今回の件について匈奴の考古学を専門とする、モンゴル科学アカデミー考古学研究のG.エレグゼン所長からコメントをいただいたので、それを紹介したい。

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ウランバートル大学のイデルハンガイ氏がアルハンガイ県ウルジート郡に位置するドゥルブルジンという場所から新しい遺跡を発見した。この遺跡で小規模な発掘調査が実施され、遺跡内に大きな基壇があることが判明した。そして基壇を囲む土塁の発掘で瓦当が出土した。出土した瓦当には漢字が書かれており、「天子單于 / 與天毋極 / 千萬歲」とあった。このことから本遺跡は匈奴の貴族のものであり、単于に関係する宮殿であった可能性が高い。しかし今後の詳細な研究が必要である。

現在、モンゴルでは匈奴時代の土城がいくつか発見されている。間違いなく15基の土城は匈奴に属することが確認されている。それ以外に匈奴に関連する可能性の高い土城が10基ある。これらを加えると20基以上の土城がモンゴル国内にあることになる。この中からゴア・ドブ(Gua Dov)、テレルジ(Tereljiin Durvuljin)、フレート・ドブ(Khureet Dov)などで発掘調査が行われている。これらの土城はヘルレン川の西岸に一定の距離を保って立地している。ゴア・ドブ土城の調査で、この土城は夏の宮殿であると推定された。テレルジ土城は冬の宮殿であり、私が今調査しているフレート・ドブ土城は都市である可能性が高い。ヘルレン川流域にあるこれらの遺跡は匈奴がゴビ砂漠の北に移動してから建てられたと推測され、発掘調査で採集したサンプルのC14年代でも追認されている。ヘルレン川流域の土城は紀元前2世紀末~紀元後1世紀初めのものであることは間違いない。

この新発見の龍城とされる遺跡はヘルレン川流域にあった宮殿がハンガイ地方に遷されたものとみられる。これに対して年代も匈奴の終わりごろ(紀元後1世紀)に関連すると推測されるが、詳細な調査が必要である。もし宮殿であれば、夏のものである可能性が高い。なぜなら、土城内に池などが設置されているからである。これまでの研究によると匈奴は都市を作り、その周りに季節の宮殿を作るとされる。この遺跡はオルホン川流域に位置することから、周辺にいくつかの季節的に利用した土城がある可能性が高いし、今後も踏査などを大規模に実施する必要がある。現在のところは推測の域をでない。

そのため、龍城と断言するにはまだ早い。そもそも“龍城”は、いまだに研究者らの中で議論になっているものであり、龍城が大都市を指すのか、もしくは単于の宮殿のことを指すのかなど、色々と難しいものである。もし単于の宮殿を龍城と名付けられたのなら、この遺跡は関連するかもしれないが、違うと思う。龍城は大都市のことを指すと考えられる。単于の宮殿とは宮殿だけを指しており、季節によって夏、秋、冬、春に移動して生活するときに利用されたものと推測される。宮殿だけで構成され、周辺には建物や集落が伴っていないことから、現在のところは、本遺跡は夏の宮殿と考えられる。

 

4.若干の解説とコメント

「龍城」とは、『漢書』巻94上、匈奴伝「歲正月、諸長小會單于庭、祠。五月、大會龍城、祭其先・天地・鬼神。秋、馬肥、大會蹛林、課校人畜計。」や『史記』巻110、匈奴列伝「将軍衛青出上谷、至龍城、得胡首虜七百人。」などに出てくる言葉であり、上記の二つが同じ場所を指しているかどうかは議論があるが、一般的には単于の居城の一つであると理解されている。「五月」とあるので、イデルハンガイ氏のように「夏」の居城と考える研究者もいる。

正式な報告の前にコメントを述べるのは難しいが、今回の発表について三点特筆すべき点があるので、その解説を行ないたい。

1)匈奴の文字瓦の出土

これまでモンゴル国内では匈奴の時代の文字瓦の出土例は皆無で、今回が初めての事例となる。この瓦には三段横書きで「天子單于 / 與天毋極 / 千萬歲」の文字を読むことができる。モンゴル国外をみても匈奴の文字瓦の出土例は少なく、中国内蒙古でも「單于」の文字瓦が出土しているが、瓦当を90度ごとに四等分し、その枠の中にそれぞれ文字を一文字あるいは二文字ずつ配置する例が多く、今回の事例とは異なっている。現時点で最も類似する資料は南シベリアのハカス共和国のアバカンで出土している。これはかつて「李陵の宮殿(邸宅)」として日本に紹介された資料で、単于の文字は使われていないものの、基壇建物跡から同様のデザインで「天子千秋萬歳常楽未央」の文字をもつ軒丸瓦の瓦当が出土している。一方で、ヘルレン川沿いの匈奴の土城からは文字をもつ瓦は今のところ出土していない。この違いをどう考えるのかは今後の課題であると言える。

アバカン遺跡出土の瓦当(中国のネットサイト https://www.sohu.com/a/350530778_100295163 より)

2)土城の立地

この地域は国内外を見渡しても、匈奴の墓が最も多く見つかっている地域である。土城の南にはタミル川とオルホン川の合流地点があり、周囲にはタミル・オラン・ホショー遺跡で匈奴の一般墓が考古学研究所のトゥルバット氏らによって発掘されている。また中国とモンゴルの共同調査が行われ、2年前に「龍城」が発見されたとニュースになった三連城(Taliin gurvan herem)も所在している。そして、やや距離が離れるが、匈奴の貴族墓として有名なゴル・モド1遺跡やゴル・モド2遺跡などもあり、極めて有力な集団が居住したエリアであることは間違いない。加えて、筆者も昨年、タミル・オラン・ホショー遺跡を訪れ、匈奴の製鉄遺跡の存在を確認している。

イデルハンガイ氏やエレグゼン氏が指摘したように、今後はこの地域の悉皆的な調査を行ない、遺跡群の関係を考えていく必要がある。

タミル・オラーン・ホショーの製鉄炉跡(筆者撮影)

3)モンゴル人による調査

イデルハンガイ氏が強く主張していることは、モンゴル人が自分たちで遺跡を見つけ、自分たちの予算で発掘を行なった点である。日本隊は該当しないが、豊富な資金を持つ外国隊によって多くの遺跡が調査され、華々しい成果が挙げられている中で、限られた予算の中でモンゴル人がモンゴル草原の最初の都を考古学の調査で明らかにしたことが、モンゴル人たちの心に強く訴えるものがあったようである。

 

今回のニュースを冷静に捉えれば、オルホン川流域で匈奴の方形土城が発見されたこと、土城内に基壇や池があること、そして匈奴の文字瓦が出土したことである。文献史料に描かれた単于や龍城と結びつけるには、すでに指摘されているように今後の継続した調査が必要である。周辺にも匈奴の遺跡が存在していることから、広く研究することによって文献史料だけでは分からない匈奴の実態に迫ることが可能になってくると思われる。今後の研究の進展に期待したい。

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