南モンゴル・オルドス新発見の突厥文字岩壁碑文についての速報

研究

2023年9月29日付けモンゴル国のDaily News(Өдрийн Сонин)掲載の記事

2023年9月14日のFacebookにアップされた写真、並びに2023年9月29日にモンゴル国のDaily NewsӨдрийн Сонин)の「歴史を通して」(Түүхийн жимээр)と題して特集された「学者のL.Khurtsbaatarが1300年前の古代テュルク・ルーン文字を発見し解読した」という記事によれば、南モンゴルのオルドス市オトク(鄂托克)旗ウズール・バルガス(棋盤井鎮)ウルームドシ・ガチャー(烏仁都西嘎査)のハランホイン・ホンディー(黒龍貴溝)の岩場の2個所から古代テュルク・ルーン文字により刻まれた岩壁碑文が発見されたという。2個所の碑文は、中間のえぐられた岩肌を挟んで、左右に刻まれているようである。(以下の写真を参照)

本岩壁が位置するハランホイン・ホンディー(黒龍貴溝)は、Google Mapで見るところ,オルドス市西方のオトク旗の棋盤井鎮に位置する。上述の新聞紙上に掲載された記事の調査写真風景から見ると、碑文は、急峻な岩場の中間、地上から約3~4mの高さに、花崗岩らしいやや赤みを帯びた岩肌を平らに削り取った滑らかな面に、縦50~60cm、横40cmほどの空間に刻まれていることが看取される。

 

 

 

第一碑文

第二碑文

 碑文の写真から、向かって左側に位置するルーン文字第一碑文は、現時点で文字の痕跡として確認出来るのは4行ほどである。新聞記事では3行あると報道されているが、実は最下段にも文字の痕跡が写真からも確認出来る。また各行の間には界線が引かれていることも看取できる。


ただし、最下段の行は、文字を彫った跡に出来る白い線の痕跡が所々に確認されるだけで、現時点では明確に文字の形を同定することは困難である。これらの文字は、新聞記事にも記されているように、一見すると、紀元後8世紀前半にモンゴル国の突厥第二可汗国に建てられたキョル・テギン碑文、ビルゲ可汗碑文・トニュクク碑文などの、いわゆるオルホン碑文に使用された文字に似ており、碑文は右側から左側に読まれる。文字の彫られた個所は岩の表面に白く浮き出ており、判別することは容易ではあるが、それ以外にも文字の痕跡をうかがわせる白線が見え隠れしており、上記以外にも文字が刻まれていた可能性は否定できない。新聞に掲載された調査風景の写真上で、ホルツバータル博士が写真撮影する際に使用したスマートフォンの寸法を目安にした場合、各文字の高さは4~5cmほどで、碑文最上部の行には2点の綴字記号(:)を含むと、約13文字が約40cmの長さで配されている。真ん中の行には10文字が長さ約30cmに、そして3行目には見た目には白線で刻まれたのは1文字しかないように見えるが、実は目をこらして摩滅しかかった個所を含むと約14文字があることが推測される。最下段の行は、ホルツバータル博士やその他のモンゴル人研究者は文字を認識していないようであるが、本行の冒頭と間隔をあけて3つの個所に文字の痕跡をうかがうことは可能である。

2023年9月26日にモンゴル科学アカデミー言語文学研究所で開催された「オルホン碑文の記念碑―遊牧民の言語は文明の歴史的根源となった」という学術研究集会。


2023年9月にこの碑文が発見されたことを踏まえて、モンゴル国では9月26日にモンゴル科学アカデミー言語文学研究所が組織した「オルホン碑文の記念碑―遊牧民の言語は文明の歴史的根源となった」という学術研究集会が開催され、その中でオルドス新発見の碑文も紹介がなされ、参加した各研究者から言及がなされた。例えば、モンゴル国アカデミー会員のL.ボルドはこの新発見が今後、南モンゴルにおける古代テュルク・ルーン文字碑文の調査研究を加速させるものになることを期待すると発言し、今後の同地域における調査研究に期待を抱いている。同研究集会ではモンゴル国立大学科学学部人文系列アジア研究学科教授のTs.バットルガが解読を試み、第2行目の個所を、Ürük Yeli Qaganと読んで、この人物を、630年に突厥第一可汗国が唐により滅亡させられる630年以前、620年代に活動していた頡利可汗(illig qagan 「国持てるカガン」の意で、在位619~630年)に結びつけられる可能性をあげて、本碑文の作成時を第一突厥可汗国末期と見なした。ただ、残念ながら私が写真を見る限りでは、3行目の前には前舌系のt字が看取できにもかかわらず、同氏はこの文字を見逃していること、また3文字目のr字の後には(:)綴字記号が識別され、最後に彼が読んだQaganの語の後舌系のGやN字は刻まれておらず、同氏の読みを支持することは不可能である。


また本新聞紙上でその調査が取り上げられたホルツバータル博士は、上記バットルガの見解を踏まえてのことと推察されるが、突厥第一可汗国期に建てられた、モンゴル国のボルガン県モゴド郡で発見され、最近、モンゴル語として解読されたブラーフミ-文字からなるフイス・トルゴイ碑文(西暦600年前後に作成)とこの本碑文との作成年が近いことから、同一の突厥政権内で作成されたことからも両者の関係は密接であり、これら古代テュルク・ルーン碑文も古代モンゴル文字碑文の調査研究を進展させる重要な資料として位置づけられるべきと強調している。もし本碑文が突厥第一可汗国末期に作成されたのであれば、同氏の見解に首肯できなくもないが、その前提となる碑文の読みや年代観に関しては不可解な点があり、直ちには同意できないと言わざるを得ない。


確かにホルツバータル博士のモンゴル国におけるテュルク語とモンゴル語の古代における接触状況や相関関係を考えるべきとの意見には傾聴すべきものではあるが、果たしてその論拠となるバットルガ教授の試読は支持されうるものなのであろうか?

あくまでも現時点における私の試読を示せば、以下のようになる。ただし、写真からは、文字の形が不確定なものや摩滅しつつある段階のものもあるので、今回の読みはあくまでも現時点における試読段階のものであることをお断りしておきたい。


私の見立てでは、文脈上、本岩壁の第一碑文は最下段から上の行に読まれると考える。つまり、最下段の行から上に移って、2行目、3行目、そして最上段が4行目と見なせる。なおここでは文字の形を示す翻字(transliteration)は省略し、転写および和訳を伏す。なお文中の( )で示された文字は碑文では表記されていない母音などの補文字を示し、[ ]で挟まれた個所は、摩滅のため、判読が難しい場所を示す。


第一碑文の転写と和訳(大澤孝による)
(1) (e)l(i)m ä : (a)zd(ï)m a :
我が国よ、ああ! 私は道を見失った(つまり、死んだ)、ああ!
(2) q(a)ŋ(ï)m a : (a)b(a)m a : ög(e)m a :
我が父よ、ああ!わが叔父(または、一族の年長者)よ、ああ!我が母よ、ああ!
(3) tör : k(e)ylig(g)ä :
貴顕の人は、野人に対して、
(4) tuŋ(a)qa : (a)ɣ : qoduɣ : ay (:)
虎に対して、網を設置した、汝は。ああ、哀しい!

この碑文は、一見して、墓碑銘と見なす事が出来る。(1)と(2)の個所は死者自らの言葉で語る一人称型碑文であり、(3)と(4)は死者の親族が、生前の死者の功績を称える2人称型の碑文であり、その意味では、本碑文はより原始的な1人称碑文だけの文章から構成されたモノローグ的な碑文ではなく、ダイアローグ的な対話型碑文の体裁をとっていることに注意したい。


(3)行目のtörという単語は、“the place of honour”、即ち、家(ゲル)の中で高位の人が座る名誉の場所を指す。いわゆる’上座’を意味する。ただし、場合によっては、転じて“the family and lineage of rulers”, 更には“princes and son of rulers”、支配者の家系に属する人物で、支配者や王子を意味する(Clauson 1972: 528b-529a)。ここの文章を一見すると、被葬者である人物が生前、野獣や虎などを獲物とした狩りの名手であったことを讃えているように見える。しかし、(3)行目のkeyligの語はマフムードカーシュガリーのDivan Lügat at-Türk の辞書にあるだけで、これまで突厥碑文やウイグル碑文にも検出されていない語で, ‘a wild man’ (野人)の意で、麻薬や酒でぼうっとした人物をさすと説明されてきた(Clauson 1072: 755b)。しかしこの語は、クローソンが暗示したように、本来は野獣を意味するkeyikに付属語の+ligが付属したkeyikligから、keyligに短縮された形になったもので、元々は’野獣に相当するもの’ を意味する。本碑文はこれまで在証されていなかった突厥碑文にこの語が検証された点は重要である。ただそれでは、ここでこの語を「酔っ払い」や「迷い人」として訳出すべきかは、なお検討の余地はある。むしろここは、語形成の通りに「野獣に相当するもの」から点じて、私は「野獣のように荒々しい人物、勇者」と解し、ここでは「(社会秩序に)背いた勇者、反乱者」などと解する。そしてtuŋaの語は ‘tiger 虎’ の本義から転じて ‘hero, outstnading worrier’(英雄、並外れた戦士たち)(以上、Clauson 1072: 515b)を指す。つまり、tuŋaやkeyligの語は、単にこの被葬者が狩りの対象とした動物を意味するだけではなく、暗喩的に使用されたのであり、高位の権力者側に属する被葬者が生前、自分の権力から背いた「野人」である勇者や「英雄」を戦闘で討ち取った功績を讃えた個所であると見なせよう。


本碑文の被葬者は、碑文の主人公であるtörと暗喩的に使用された、当地を遊牧地とした突厥王権やウイグル王権に関係した王子やそれに匹敵する高位の人物を指す。例えば、それは突厥の場合であれば、阿史那の氏族もしくは阿史徳の氏族に関係する人物、ウイグルであれば、王族のヤグラカル氏族に関係する人物であった可能性はあるが、具体的な人名は不明である。この碑文はその人物が亡くなった際に、かれの生前の功績を讃えたものであろう。それも現在までのところ、まだこの前後の個所に文字がある可能性は否定できないので、調査の進展を待ちたい。


次に、オルドス第二碑文についてであるが、これは掲載された写真から右手に位置する。地上からの高さも第一碑文とほぼ平行しているようであり、高さ3~4mほどの地点に刻まれている。写真を見る限りでは、白く浮き出た個所は2行ほどであり、それも、一見すると文字の痕跡を辿ることは困難である。また本ルーン文字は、先の碑文と比べると摩滅が激しく、碑文の書かれた岩の表面はごつごつした状態で、文字も摩滅した個所が多く、その全体像を復元することは難しい。ただ、私が文字の痕跡として、細い線刻を辿った結果として、この碑文は4行からなっていたと推察される。本碑文にも各行の間には界線が引かれている。この碑文に関して、以下には私が判読できた転写および和訳を試みとして提示しておきたい。この碑文は最下段から始まっていても良いが、文脈上からは、上段から読んでも差し支えはなさそうであるので、今は上段から読んでおきたい。


第二碑文の転写と和訳(大澤孝による)
(1) ög(ä)m a : q(a)ŋ a : [(a)zd(ï)m : a ] y(e)r(i)m a :
我が母よ、ああ!父よ, ああ![私は道を見失った(つまり死んだ)、ああ!]、わが土地よ、ああ!
(2) (a)zd(ï)m : a
私は道を見失った(つまり死んだ)、ああ!
(3) iš[ig] küčig b(e)rd(i)m ä y(ï)ta ög(ä)m a :
私は、奉仕した、ああ,哀しい!我が母よ、ああ! 我が父よ、ああ!
(4) q(a)ŋ(ï)m a : (a)z(ï)m a (:) y(ï)ta
我が父よ、ああ!私は道を見失った(つまり死んだ)、ああ!哀しい!

私の解釈ではこの碑文も墓碑銘であると考えられる。そして注目すべきは、上記の第2行目と3行目の後続個所には、やや大きめの二つの岩絵が刻まれている。左側の岩絵は、一見すると、漢字の「吏」に似た契丹文字のような形が窺えるが、真偽は不明である。また右側の岩絵は左側に頭をもつ鹿か、山羊のような動物像が看取できる。ひょっとすると、左側の岩絵は、突厥阿史那の雄山羊タムガの一バージョンかもしれないが、さらなる検討の余地はあろう。刻まれた文字の類似性からみると、この第2碑文も第一碑文の被葬者と関係がある人物かも知れず、その場合、同時期に刻まれた可能性がある。これは1人称型の墓碑銘である。

次に、これら二つの碑文の作成年代であるが、この碑文はオルドス地区に位置することからすれば、既にバットルガが提起したように、オルドス方面に突厥第一可汗国が唐により滅ぼされてから、「突厥降胡」とか、「六胡州」(Altï Čub Sogdaq)などと呼称され、突厥王族やその配下のテュルク系部族や、突厥可汗配下のソグド系のチャカル軍人がモンゴル高原からオルドス方面に居住を強要された630年以降、イルテリッシュ可汗がトニュククらと組んで、唐からの独立戦争を開始した682年頃までの時期が念頭に浮かぶ。しかし、バットルガのように、これを第一可汗国が崩壊する直前の619-630年に在位した頡利可汗の治世期に作成されたとは到底見なせない。


特に、私は、問題はその文字の形にあると考える。私自身のこれまでの調査結果からは、特に第一碑文で使用されたTの文字の形は、8世紀前半のトニュクク、キョル・テギン、ビルゲ可汗などのオルホン諸碑文、更には7世紀歳末期に亡くなったイルテリッシュ可汗(在位682~691年)の記念碑と見なされるノムゴン碑文のそれとは異なっている。それはむしろ、モンゴリア発見の東ウイグル時代(西暦744~840年)の可汗に関わる諸碑文や南ゴビで発見されたクトルグ印銘文、ボルガン県ザーマル郡の僕固部の墓周辺から発見された銀器銘文、西暦8世紀後半以降、11世紀頃まで使用されたイェニセイ・クルグズ碑文に見られるものである。また本碑文で使用された「野人」を意味するkeyligが今日のテュルク諸語の中では、唯一、イェニセイ・クルグズ語の後裔とされるハカス語でしか在証されていないという点も、イェニセイ・クルグズ碑文との関係性を示唆するものとも言えそうである。


また、もしこの碑文が突厥文字の最初期にあたるのであれば、その最初期の碑文形式である一人称型の墓碑まではなく、さらに発達した二人称型の碑文形式を備えているのかを説明することは難しいと思われる。


また、碑文研究の現状から言えば、モンゴル高原で繁栄を極めた突厥第一可汗国(552-630年)の時期に創始されなかったルーン文字が、何故、唐の支配下に入って、強制移住を余儀なくされた羈縻支配時期(630-682年)のオルドスの地で創始されたのかを説明することは、かなり難しいと言わざるを得ない(勿論、ルーン文字の創始背景には、突厥復興の立役者であるトニュクク(阿史徳元珍)碑文上に窺える民族意識に基づく反唐意識があった点は私も認めるところではあるが、オルドスの地でルーン文字が創始されたことを裏付ける明確な証拠は今のところはない。)


もしこの推測が正鵠を射ているのであれば、オルドス発見の二つの新碑文は突厥第一可汗国崩壊後の唐による羈縻支配時代よりは、突厥第二可汗国成立後の8世紀中葉、あるいは、東ウイグル可汗国に関わる九姓鉄勒、もしくは744年以降、モンゴル高原から南下してオルドス方面に移住を余儀なくされた突厥王族の貴顕に関わるものといえる公算は大であろう。


ただ、問題は件の写真では読み取れない個所があること、また摩滅した部分が他にもある可能性は高く、その意味でも今後の本碑文の調査の継続と鮮明な画像資料が共有される必要がある。管見の限りでは、南モンゴルでその存在が確認されたルーン文字碑文は本碑文を除くと、フフホト市の北方の地区の岩に刻まれたもの1点しかなく、それも一行綴りの短い銘文でしかない。


これまで、突厥文字銘文は南モンゴルのオルドス地区からも報告されたことがないことから、研究者は当地における突厥部族の動向は漢文史料や墓誌類に依拠してきた点は否めない。その意味で、本碑文は南モンゴル地域における突厥族の活動や文化を具体的に明らかにする上で、また、彼らの残した文字文化の創成過程を知る上でも、貴重なデータを提供してくれる。本碑文の報告と調査を行った関係者の労には深く謝意を示したい。そのうえで、今後の現地の研究者による実地調査による研究の進展を願うと共に、本地域におけるさらなる広範な調査および研究成果に関しての国際共同研究が切望される次第である。

参照文献:

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Daily NewsӨдрийн Сонин)Түүхийн жимээр(2023/09/23)

 

Clauson, S.G., An Etymological Dictionary of Pre-Thirteenth –Turkish Dictionary, 1972, Oxford.

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