モンゴル帝国の首都カラコルムの記念すべき建都800周年の櫛目に、「バーチャル・カラコルム」(Virtual Kharakhorum, https://ds.ocurus.com 以下VKと略称)が作られ、一般公表されたことは、素晴らしい。映像のインパクトは、モンゴル帝国史の出来事をより鮮明に人々の脳裏に刻み込むであろう。
しかし、映像の復元においては、いくつかの難点がある。歴史学、考古学、建築史、都市史、宗教学などの膨大な資料と照らし合わせて、映像と辻褄が合っているのかを考証していくことである。言うまでもなく、長い時間を要するし、デジタル化のための作業量も膨大である。特に、カラコルム遺跡では、地上部の建築物の出土品が少ないため、建築や都市景観を復元するためのハードルは、より高くなる。また、同じ資料であっても、十人十色で解釈は人によって異なる場合がある。建築復元案も絶対正解がないため、現在の第一期のVK案では、これを素材として、各国の学者による国際的な議論により、実証的な復元案を得られる可能性が高い。そういう意味で、今度のバーチャル復元プロジェクトでは、研究を深める上での基盤を築いたと称賛すべきである。
復元案を検討するまえに、少し私とカラコルムのかかわりを紹介させて頂きたい。松川節先生が代表を務める一連の科研のメンバーとして、2009年以降、毎年夏にカラコルムに赴き、モンゴルドイツ合同カラコルム発掘調査や勅賜興元閣碑の最新発見を目の当たりにしながら、エルデネ・ゾー僧院内のゴルバン・ゾ―寺院建築の調査を進めた(包慕萍「蒙古帝国之后的哈剌和林木构佛寺建筑」(モンゴル帝国以降のカラコルム木造寺院建築について)(中国語論文、『中国建築史論彙刊』第8輯、中国建築工業出版社、北京、2013年、pp.172‐198)。また、2015年にアメリカ・ヴァンビルド大学で開催された第3回中国古代建築史国際シンポジウムで、「興元閣の建築様式の復元について」(英語論文、Bao Muping, “Multi-story Timber Buildings in Thirteenth-Century Karakorum: A Study on the 300-chi Tall Xingyuan Pavilion“, The Journal of Chinese Architecture History, 『中国建築史論彙刊』第15輯、中国建築工業出版社、北京、2018、pp.343-356)を発表し、会場の学者たちは、これまでに全く知らなかった高さ300尺もある興元閣に高い関心を示し、会議に参加していた清華大学の建築史家、王貴祥先生が一早く復元案を試みた(英語論文、Wang Guixiang, etc., “Recovery Research of Xingyuan Pavilion Built at a Buddhist Temple in Mongol-era (Yuan) Karakorum“, The Journal of Chinese Architecture History, 2018, pp.357-383)。
以上の経緯もあり、私は13~14世紀当時のカラコルム建造物のVK復元に興味を持った。復元されたカラコルム街区の中で、特に興味を引くのは,①仏教寺院の興元閣、②大ハーンの宮殿、③モスクの三つの建造物である。
①バーチャル・カラコルムにおいて、興元閣復元案は、モンゴル国の建築史学者であるZ. オユーンビレグ女史が自ら出演・解説している。その復元設計案の完成度は高く、特に評価できる。また、仏塔の前には、亀趺に石碑を載せた「勅賜興元閣碑」が見事に復元され、考古学者のU. エルデネバト氏が解説している。亀趺しか残っていなかった「勅賜興元閣碑」は、このCGでの復元により臨場感を増している。
具体的には、興元閣のCG復元案は、1階の主体平面(母屋)が7間で、外観が5層に復元され、歴史的な記録と一致している。ただし、1階の主入口では、発掘平面にない「凸」字形平面の門廊(図2の1階平面略図の茶色部分)が付けられている(図1)。
2階平面は、主体構造は5間正方形で、四面に均等に3間門廊が突出している(図2の2階平面略図の茶色部分)。3、4階では主体構造は3間四方にして、間口1間の門廊(図2の3-4階平面略図の茶色部分)が付けられている。五層には、開放的な亭子空間になっており、屋根は入母屋造(中国語で歇山頂)を十字形に交差させた「十字脊」の様式になっている(図3)。
主体平面(母屋)は間口7間から5間、3間と上層になるにつれて変化させて、さらに各層の四面から突出する門廊をつけることで、建物の造形的な変化を求める復元設計の意図が伺える。確かに、このような手法で、華麗な楼閣建築の景観が得られたといえよう。
しかし、興元閣を華麗な楼閣建築として復元するというデザイン方針は正しいのか。ここで、少し私見を述べさせていただきたい。
結論からいうと、興元閣の復元案は、仏塔というより、全体的な雰囲気は娯楽性や眺望性が強い楼閣になっている。仏塔であれば、最上階は仏像を供える重要な空間になり、一般的に閉じた空間になる。現在の復元案の最上階は、オープンな亭子空間になっている。これはまさに「登高望遠」のために造られた楼閣と言える。
武漢にある黄鶴楼はその代表例である(図4)。黄鶴楼は中国の歴史上では三大名楼の一つに数えられ、長江の景色を眺望する楼閣として造られ、現在の建物は1980年代に鉄筋コンクリート造で再建された。
また、復元案は5層楼閣になっているが、層毎に屋根を変化させ、最上階では「十字脊」屋根になっている。この仏塔の造形は、どうも宋、元の時代に流行っていた「界画」(定規を使って細密工整に建築や町の風景を画く中国絵の技法、清明上河図が代表例)でよく見られる楼閣様式が参考されたようである。例えば、元朝の代表的な画派である郭忠恕派の《明皇避暑宫图》(図5、14世紀、日本大阪市立美術館蔵)では、
「十字脊」屋根が見られる。この《明皇避暑宫图》では、唐玄宗の夏の離宮を描いている。
また、史料によれば元の上都にあるクビライ・ハーンの大安閣も高層の華麗な楼閣建築である。しかし、これらの建物は離宮にある建物で、その建築造形の特徴は、首都にある正殿の政治的威厳さをさけて、大らかさや安らぎを求めているである。元の宮廷画家王振鵬が描いた「龍池競渡図」(台北故宮博物院蔵)の中にも、舟の上に「十字脊」屋根の楼閣が載せている(図6)。
これも宮殿の庭園にある娯楽的な建物である。以上の事例から、屋根を複雑に交差させた華麗な楼閣建築は宮殿の離宮や娯楽施設によく使われていたことがわかるであろう。
続いて、民間建築を見てみよう。復元された興元閣の建築様式と類似する楼閣建築の遺構が中国にある。それは中国山西省万栄県にある飛雲楼(図7、1506‐1521年に建立)や秋風楼(図8、1870年再建)である。
前者は泰山の山神を祭る廟で、後者は土地神を祭る廟である。これらの建物は仏教建築ではなく、道教建築である。中国では、神は高い楼閣に住んでいるとする神仙思想から、屋根が複雑に交差して、天界にある天宮を表現する造形になっている。
では、仏塔の造形では、宗教性や政治性をどのように表現しているのか。
まず、王貴祥先生の興元閣復元案を例にそれを検討してみたい。王先生の興元閣復元案では、宋の建築技術書である『営造法式』の規則で定められた寸法体系を忠実に守って復元設計をしている。また、塔の最上階の屋根形式には「廡殿頂」、「歇山頂」と「十字脊」(図9)の三つの案を試みていた。
これは、中国建築における屋根形式の等級に配慮したためである。「廡殿頂」は最高なランクになり、「歇山頂」は2番目のランクである。「歇山頂」を十字に交差したような「十字脊」は、屋根形式の等級がさらに低くなる。興元閣はモンゴル帝国を創建初期から建てられた高さ300尺の仏塔であるから、仏教を帝国の中心的な宗教にするという強い政治的なメッセージが込められて、最高等級の「廡殿頂」の案が考案されたと思われる。第三案は、宋、元の時代の楼閣建築で流行っていた「十字脊」屋根を取り入れることを試みた。
王先生の復元案では、主体構造(母屋、回廊を含めず)はすべて三間で復元され、文献上の7間仏塔の記録とは大きな齟齬がある。王先生のお話では、最初は7間四方の仏塔を復元してみたが、出来上がった復元案のプロポーションが王先生の考える宋の仏塔のイメージと合致しないため、碑文の「四面為屋」を一層の回廊として解釈するように改めた。これが主体構造を3間四方の楼閣として復元した所以である。確かに、王先生の復元案は、宋楼閣建築の秀麗な造形になったが、これは、モンゴル帝国の創建期に好まれた美意識であったのか。また、この繊細な楼閣が、モンゴル帝国の代弁者として、全世界に強いメーセージを伝える仏塔になり得るのかは、疑問が残る。
筆者の考えでは、モンゴル帝国の最も高くかつ重要な仏塔の造形的なイメージは、遼の1056(清寧2)年に造られ、山西省の応県にある仏宮寺釈迦塔(図10-1 立面図、10-2 断面図、俗称応県木塔)や韓国皇龍寺(図11 韓国皇龍寺九重塔復元立面図)の九重塔が恰好の参考例と思っている。
遼の仏宮寺釈迦塔は、高さ67メートルで、現存する世界最高の木造建築である。仏宮寺釈迦塔は八角形で、興元閣の正方形とは異なるが、その勇猛剛健な造形は、よいお手本になりうると思われる。また、韓国皇龍寺の九重塔は7世紀に朝鮮半島を統一した善徳女王が作った高さ225尺の仏塔で、国家鎮護を祈願する性格あり、興元閣と類似している。建築的にも、間口7間、正方形プラン、高層木塔と興元閣と酷似している。
②VKでは、大ハーンの宮殿を現在のエルデネ・ゾー城壁内に復元させた。また、宮殿は三つの主要建物により構成され、三つの宮殿が一直線に並んでいる配置は、現存の仏殿ゴルバン・ゾーとよく似ている。それに加えて、中央大殿と左右の脇殿の間に渡り廊下が設けられた。クビライ・ハーンの大都の宮殿も正殿と脇殿で構成された記録があり、モンゴル特有な正殿配置と思われている。したがって、VKのオゴデイ・ハーンの万安宮の三殿が一直線に並ぶ配置も納得できる一つの復元案であろう。万安宮の地上部分の建築様式に関しては、文献資料や出土資料が乏しいから、復元の是非を議論する根拠はないが、現在の木造建築とオルド屋根形式を組み合わせた建築様式も一つの可能性としてありうるであろう。注意すべき点は、オルドの「オニ(垂木)」は直線の木材であるため、組積造のドームにならないようにする必要がある。参考までに、後世の事例ではあるが、清のヌルハチ・ハンのムクデン(瀋陽)で1624年に建設された宮殿の正殿大政殿では、八角形の「重檐攢尖頂」である(図12 瀋陽故宮の大政殿平面と立面図)。これもテントのイメージを木造で表現した事例である。
③アジア建築史、都市史研究の一環として、私は2003年から新疆ウイグル自治区、ウズベキスタン、そして中東のイランやトルコなどのイスラム建築を踏査した。その経験から、自然にVKの中のモスクに注目した。13世紀には、イスラム建築を東へ伝播するルートが二つあった。一つは、中央アジア経由のシルクロードで、こちらは日干し煉瓦造の建築技術、例えばドームやモザイクがモンゴル帝国にもたらされた。もう一つは、海上シルクロードを経由して伝来し、福建省の泉州の清浄寺のように、石造モスクが残されている。
VKのモスクは、日干し煉瓦造にモザイクで飾っているように復元されている。正史では、ムスリムの職人がオゴデイ・ハーンのために、離宮で青い色の宮殿を造っていたとあるから、モザイクの技術が伝来したことが伺える。したがって、VKのモスク復元案も建築技術的な面では、正しいであろうが、イワン様式の門楼には、アーチ門を作るべきであったが、復元では木造建築の扉になっている。また、ミナレット(宣礼塔)やドームはサマルカンドの遺跡を参考したように見受けられるが、サマルカンドの遺跡の多くは16世紀以降に建設されたもので、もっと古い古都のブハラの遺跡(図13)
やチャガタイ・ハン国の末裔であるモグーリスタン・ハン国の創始者とされるトゥグルク・ティムールの陵墓建築(マザール)を参照にすると良かったと思われる。
トゥグルク・ティムール及び王妃の陵墓建築(中国国家級建築文化財)(図14)は、元至正23〜29年(1363〜1369年)に建設され、新疆ウイグル自治区のイリ管轄下の霍城(当時の都であるアルマリクの近辺)に現存している。
以上のように、今回のバーチャル・カラコルムの都市・建築景観の復元は、カラコルムの都市・建築に対する世界中の関心を掘り起こし、改めて、多角的な観点から議論する機会を提供したと考えられる。そして、何より、映像で検証し提示したことのインパクトは、学術上のパラダイムシフトを巻き起こす可能性を秘めている。この復元案があったからこそ、俎上に上がった議題も多く、暫くは、世界各地で、カラコルムの未知なる世界に関する議論が展開されることは間違いない。筆者も引き続き、カラコルム復元に思いを寄せる日々が続きそうである。(包 慕萍[バオ ムーピン] 大和大学理工学部准教授)
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